「武士道とは死ぬことと見つけたり」
と言うくだりです。
これが、特攻隊や玉砕を美化するもので
非常に軍国主義的だ
として至極一面的な解釈がされ
GHQによって廃刊処分となりました。
(現代では再版され普通に読めます)
しかし、この葉隠は「人生の処世術」を記した部分や
現代的に言うと「ビジネスマナー」などが
書かれているところが多く、
著者の山本常朝自身も「生きることは楽しい」と
書かれておりますし、
一概に「死」を美化しているわけではないと思います。
さて、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
この文章には主語と目的語がありません。
主語はもちろん「私」
目的語は「誰かのため」
なんだろうと思います。
自分ではない誰かのために生きる
これが武士道の本質なんだろうと思います。
日本には武士道があります。
ウソをつかない
誠実に生きる
和を尊ぶ
人のために生きる
日本が誇る武士道は
世界に誇るべき文化なんだろうと思います。
日本ってやはり古来から素晴らしい国!!
と
葉隠をこんな風に紹介している人が多い。
でも、私の認識は少し違います。
日本以外には武士道はないのでしょうか?
競争社会で他を蹴落とす大陸文化には
武士道は存在しないのでしょうか?
温暖な海で守られ、
長期にわたり他民族からの圧力を受けずに
長い平和を享受できた日本だからこそ、
「武士道」に代表される
独特な日本文化が育ったのでしょうか?
もちろん、
日本独特な文化の育成には
上記のような地政学的な側面もあると思いますが、
この「武士道」に関しては
日本だけではなく、程度の差はあれ
世界共通の認識なんだろうと私は思います。
武士道は生物共通の理念として
もう少し細かく言えば、
集団を形成する動物共通の理念として
存在するんだろうと思います。
以前イワシボールの話を書きましたが、
イワシは外敵に襲われると、
集団で巨大な球体の形を形成します。
大きな塊となることで、敵を威嚇するためです。
しかしひとたび襲われれば、
球の外円付近にいるイワシは
もちろんやられてしまいます。
しかし、集団全体としては
生き残る個体数が多くなり、
全滅することを防げます。
だからイワシは巨大な球体の塊となる、と言われています。
でもどうでしょう?
外円にいると敵に食べられる可能性が高いわけですから、
生き残りたかったら、
球の中心付近に居座るのが
最も生き残る可能性が高いわけです。
しかし、それでも外円を泳ぐイワシは居ます。
自分が犠牲になるのをわかっていて
外円を泳いでいるわけです。
自分ではない誰かのために生きる
まさに武士道と言っても良い行動なんだろうと思います。
イワシに武士道なんて!?
と思うかもしれませんが、
イワシの行動と武士道とは
集団をなす生物特有の共通性があるのだと思います。
日露戦争時、
自分が死ぬとわかっていて
突撃に次ぐ突撃を繰り返し、
多大な犠牲を出して攻め落とした203高地での戦い。
乃木稀典将軍の取った作戦は
犠牲者を無駄に出したと非難する人もおりますが、
それはあまりにも一面的なものの見方なんだろうと思います。
日本を守るため、
家族を守るため、
愛する我が子を守るため、
軍人となり外国に赴くのです。
乃木将軍は
この戦いで自分の息子をも失いましたが、
結果的にロシアの南下政策から日本を守り抜いた。
あの時、個々の日本軍人はなぜ死ぬとわかっていて
銃剣だけで強固なロシアのトーチカに
突撃できたのでしょうか?
それは自分が犠牲になることで
より大きな集団を守るという
集団を形成する生物としての本能ともいえる
「武士道」があるからなんだろうと思います。
武士道とは死ぬことと見つけたり
自分ではない誰かのために生きる。
このように生物1人1人としての個体は
集団に貢献することでしか生きてはいけません。
集団に貢献するから「生きている」と言えます。
生理が終わったメスサルはすぐ死にます。
ボスになれず、
群れから出たはぐれオスサルはすぐ死にます。
集団に貢献できないからです。
産卵が終わった鮭はまだ生きる体力があるのに、
すぐに息絶えます。
親の体は腐敗し、川の養分となり、
後に生まれてくる子供たちのエサを増やします。
鮭は後の集団に貢献するために
自ら死を選ぶのです。
人間はどうでしょう?
子を産み育てる
一生懸命働いて社会に貢献する
私たちが「生きている」ためには、
社会(集団に)に貢献する以外には何もありません。
「お金」や「権力」も、
社会にいかに貢献してきたかの
極一面的な「尺度」でしかありません。
お金や権力そのものが目的となって行動をすれば、
それは集団に貢献しているとは言えません。
欲に目がくらんで行動をする結末はいつも同じ。
集団に貢献していなければ、
待っているのは生物共通、「死」だけです。
大脳が巨大に発達した人類。
理性や感情、より論理的な物の考えなど
人間らしさを司ります。
生命維持に必要な命令を出す脳下垂体を
遥かに上回る容積となった大脳が
武士道を作り出したのではなく、
生命本来の機能としての武士道が備わっているんだろうと、
私は思います。
「武士道」をはじめとして
日本には確かに誇るべき素晴らしい文化がいくつもあります。
しかし、それは日本だけに存在するものでなく、
特に「武士道」に関しては、
世界共通の認識になり得るんだ、と思います。
ちょっと話が飛びますが、
先日見た「ウォーキングデット・シーズン8」
その中で、
エイブラハムという登場人物が出てきます。
彼は、
「この肉体を誰よりも先に
まな板の上に載せる。
常に人のためだ。
俺たちの死は、意味がないとだめだ。
全てに意味があると実感しなければ、
なにから、なにまで・・・
戦場でも、ビーチでも
今日どこかでも・・・
(妊娠している)マギーは
未来を担っている。
なぁ・・・
誰かのためにケツを差し出し、
引き裂かれてもいい
そろこそが人生だ」
これこそ武士道精神そのもの。
武士道とは死ぬことと見つけたり
これは世界共通なんだろうと思います。
ウォーキングデットでの一コマをみて
そんなことを思いました。
アメリカにも武士道はある。
もちろんヨーロッパにも
もちろんアフリカにも
中国にも韓国にも北朝鮮にも。
世界中に武士道は存在しているんだろうと
私は思います。
おしまい。