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2014/04/04

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歴史⑤ 侵略とは2(植民地の実態①オーストラリア編)
前回の日記のように、
明治維新当時、
世界のほとんどすべての地域は白人(アーリア人)によって
支配されている状態でした。
残っているのは中国の一部と日本だけ、という
何とも特殊な世界でした。

日本史だけを勉強していると、
260年続いた江戸幕府に
突如として黒船が来航し、
開国することとなったように感じてしまいますが、
世界の大きな流れからすると、
あのタイミングで江戸幕府が開国を迫られたのは
当然のタイミングでありました。

当時の日本にも
西欧列強の支配の手が伸びている
ということを敏感に感じ取っている人達もおりました。
松下村塾の塾生などは
当時の世界の情勢を敏感に感じ取っておりましたし、
また、
江戸時代に唯一貿易を許されていたオランダも
日本が開国しなければ侵略されるぞ、という
親書を送っております。
200年以上お付き合いのあるオランダですから、
親切心からそういった親書を送ってくれているように
見えますが、実際にオランダで会議されていたことは
親切心とは全く真逆の内容でしたが、
ま、この話はまだ今度。


さてさて、

今日は白人が支配した植民地の実態に迫りたいと思います。


私はオーストラリアに2年間おりましたので、
その間にいろいろなことを学びました。
具体的事例と歴史的事実は
大変恐ろしいものでした。
向こうで出会った多くのオージーは
基本的に気さくでおおらか、大変親切な人ばかりで
あんまり悪いことを書くのも気が引けますが、
オーストラリアの暗い歴史にも
目を向けなければなりません。

17世紀の大航海時代にイギリス人やオランダ人によって
初めてオーストラリア大陸が発見され、
1788年、イギリスにる入植が始まります。

ご存知のようにオーストラリア大陸には
先住民であるアボリジニーがすでに生活をしておりました。
当時50万~100万人の人口があったといわれています。
言語だけでも250、部族数は700を超えていました。

1920年ごろまでには、
アボリジニーの人口は約7万人にまで
減少しています。

これはイギリス人による虐殺によるところが多い。
スポーツハンティングと称して
アボリジニ狩りを酒を飲みながら興じたり、
水場にに毒を流して集団殺害したり、
組織的に部隊を編成して集団でアボリジニを虐殺しました。
集団で捕まえて離島に置き去りにし
餓死させられたりもしました。
崖の上にアボリジニーの女性を立たせ
鉄砲で脅し、女性が飛び降りて死ぬのを楽しんだ、
という話もあります。
「今日はアボリジニ狩りに行って17匹やった」という日記が
図書館にも残されています。


1803年
オーストラリア南東部にあるタスマニア島に入植の手が伸びます。
当時タスマニアンアボリジニーは3000~7000人いましたが、
わずか30年の間に300人にまで減少しています。

1828年
これら虐殺ともいえる行為が
入植者の権利として法律で公に認められるます。

この法律によってさらに多くのアボリジニーが虐殺されていきます。

もともと住んでいた土地を勝手に奪われ、
開拓地に侵入したからなど、勝手な理由で
殺されていったのです。

彼らからすれば、今まで通り自由に狩猟生活を行ってきた
だけなのに・・・

なんとも信じられない法律ですが、
実際にあった法律です。

1920年
極端に減少したアボリジニーの保護政策が始まります。
もともと植物の多い東海岸沿岸部等に多くいた
アボリジニーでしたが、
内陸の砂漠地帯に保護区を設けて居住区を作りました。
これは、保護という政策をとりながら、
実際には隔離政策であり、
徹底した人種差別制作でした。
いわゆる白豪主義です。

さらに民族保護という名目で
より文化的で清潔な白人社会に適合させるためとして、
アボリジニーの子供たちを家族から引き離し、
白人家庭の養子として育てます。
中には数百、数千キロはなれた土地に出向き
子供を家族から強制的に引き離します。
こうして、白人家庭で育ったアボリジニーは
伝統文化を忘れ、アイデンティティーを失います。
白人との間に生まれたハーフの子供は
時に売春婦として利用されました。

白人に捕えられた子供が家族に会うために
脱走し、数千キロ離れた家まで徒歩で旅をするという、
有名な映画「ラビット・プルーフ・フェンス」を
見ましたが、もう涙が止まりません。
逃げたアボリジニーの子供を追うのは
なんと雇われたアボリジニーでした。
複雑な気持ちになりましたが、
その後、この映画がきっかけとなり、
私なりにいろいろ調べました。
実は、白人家庭に養子になったアボリジニーは極僅かで
ほとんどは強制収容所や保護施設に送られていたそうです。
こうした政策が政府や教会の主導の元で行われ、
多くのアボリジニーの子供たちが虐待を受けたり、
遺棄されました。

アボリジニー全体の約1割もの子供たちが
こうして拉致されたそうです。


オーストラリア政府も教会も保護のためとしていますが、
実際には子供をさらうことで純血なアボリジニーの人口を
減少させ、文化的にも人種的にも根絶やしにする
というのが、本当のねらいでした。

この政策は1967年まで続きます。
たった40年前まで行っていた信じがたい
非人道的な政策です。


1967年アボリジニーの市民権が
オーストラリア政府にようやく認められます。


その後徐々に人口が増加し
現在は約35万人。
オーストラリア全体のわずか2パーセント。



オーストラリアに白人が入植し、植民地としてから
わずか130年ほどの間に
43万~193万人を虐殺しています。
その後の人種差別政策以降も白人による
アボリジニーの死者は出ていますので、
実際にはもっと多くの
アボリジニーの方が虐殺されていることになります。


あんまり言いたくはありませんが、
「白人は他民族よりも優れているから
他を駆逐しても構わない」
とでも思っているのでしょうか?

しかし、そうでも思わなければ
こうした非人道的な虐殺は人間として
説明が付きません。

ま、前回の日記にも書きましたが、
やはりキリスト教という存在が根底にあるのか
または、それを政治が利用したのか?は
定かではありませんが
宗教が大きく関係していることは確かです。


私がオーストラリアにいたころ、
最初の1年は不勉強でしたので、
アボリジニーの悲劇の歴史を全く知りませんでした。

街を歩いていると、
give me 2$
とか
give me cigarette
とか言って近寄ってくるし、
昼間から公園で酒におぼれて喧嘩などするし、
はっきり言って良い印象は全くありませんでした。
ちなみに、アボリジニーは伝統的に
アルコールを全く取りませんでしたので、
体内にアルコール分解酵素がほとんど
もしくは全くありません。
少量のアルコールで泥酔します。
公園などで酔っ払っているアボリジニーを多く見かけたのも
そのためだと思います。
白人によって持ち込まれたアルコールにより
生活そのものも激変してしまった。



現在でも白豪主義はまだまだ根強く残っていて
アボリジニーの方はなかなか良い職に就けません。
法律上、人種による就業の差別は禁止されておりますが、
実際には良い職に就けず、
就けたとしても最初に切られるのは
アボリジニーです。
政府主導の生活補助だけで生活できてしまうのも
こうした現状を助長しているものと思います。
生活できてしまうのだから
従業意欲も湧かない。
私から見ると、今でも事実上の人種差別政策は
続いていると思います。

地方に行くとこの白豪主義はさらに根強く残っていて
アボリジニーに限らず黄色人種も差別を受けることが
あります。
特にダーウィンあたりは戦時中に日本が爆撃したという
歴史もありますが、街を歩いているだけで
「ジャップ!!」(日本人を卑下する言葉)と
罵声を浴びることもありました。
実際に言われるとなかなかショッキングですよ。ほんと。


今回はちょっと長くなりましたが、ここまで。


次回はアメリカンインディアンと黒人奴隷の話。

おしまい。

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