昨日の日記に引き続き、歴史シリーズの8回目
このまま、日清戦争について書こうと思っておりましたが、
ちょっとその前に、
アヘン戦争についても少しだけ触れておきたいと思います。
イギリスと清の戦いです。
まぁ、ともかく、戦争の原因がひどい。
イギリスは清から茶・絹・陶磁器などを輸入し
毛織製品や鉛・鉄などを清に輸出しておりました。
清としては特に欲しいものもなく、
圧倒的に輸出が多かった。
これも一つの中華思想なのかもしれませんが、
中国が世界の中心で、ほかの国はすべて野蛮で
秩序もないとする自民族中心の思想です。
宇宙の中心である清には全てのものがあり、
それ以外の劣っている国に
「必需品を与えている」に過ぎなかったのかもしれません。
そのためほとんど鎖国状態といってもよく、
開港していたのは広東の港だけでした。
イギリスは輸入額だけが膨れ上がり、
貿易赤字に陥ります。
そこで東インド会社を使い
イギリスから植民地であるインドに工業製品を輸出
インドで栽培させたアヘンを密貿易によって清に売りつけ
その利益で今まで通り清から茶や絹などを輸入するという
苦肉の策を講じます。
いわゆる三角貿易です。
過剰な工業製品を無理やり買わされるわけですから
インドもたまったものではありませんが、
アヘンが蔓延させられる清のほうが、
さらに被害が大きい。
アヘンは清国に蔓延し、労働生産力は極端に減少しました。
1820年代になると、清はイギリスに対して
貿易赤字に陥ります。
清朝政府も国中にアヘンが蔓延するのを
黙って見ているわけではありません。
林則徐(りんそくじょ)が中心となって
アヘンの取り締まりに当たります。
林則徐は広東の港で
2万箱のアヘンを没収して焼却処分にしました。
さらにアヘンを密貿易していたイギリス人を拘束
それに怒ったイギリス政府は清に軍隊を派遣します。
その時のイギリス議会では
賛成271票、反対262票
たった9票差で軍の派遣が決定しました。
アヘンを密貿易して利益を得ていたわけですから
イギリス国内にも清との戦争に反対している人は
結構多かったんですね。
その中で、イギリスで4度も首相となっている
若き日のウイリアム・グラッドストンが
こう演説しています。
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「その起源においてこれほど正義に反し、この国を恒久的な不名誉の下に置き続けることになる戦争をわたくしは知らないし、これまで聞いたこともないと、明言できる。反対意見の議員は、昨夜広東で栄光のうちに翻るイギリス国旗とその国旗が地球上のどこにおいても侮辱されることはないと知ることで鼓舞されるわれらが兵士たちの精神について雄弁に話された。幾多の危機的状況のなかでイギリス国旗が戦場に掲げられているときイギリス臣民の精神が鼓舞されてきたことをわれわれは誰でも知っている。だが、そもそもイギリス国旗がイギリス人の精神をいつも高めることになるのはどうしてであろうか。それはイギリス国旗が常に正義の大義、圧制への反対、国民の諸権利の尊重、名誉ある通商の事業に結びついていたからこそであった。ところが今やその国旗は高貴な閣下の庇護の下で、悪名高い密貿易を保護するために掲げられているのである。
わたくしは、女王陛下の政府が本動議に関して本院にこの正義に反した、邪悪な戦争を教唆するよう説得することなど決してないと確信する。わたくしはアヘン貿易をどれだけ激しく弾劾しようと何の躊躇も感じない。同様な憤激をもってアヘン戦争を弾劾するのに何の躊躇も感じることはない。
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グラッドストンの議会演説(1840年4月8日)「世界史資料(6)p149岩波書店
グラットストンの尽力及ばず
しかし、わずか9票差で軍隊の派遣が決定。
イギリスは遠征軍を極東に送ります。
派遣決定を受け
インド提督オークランドは
軍艦16隻、輸送艦27隻、東インド会社所有の武装商船など
合計47隻、陸軍兵士4000名からなる
東洋艦隊遠征軍を清に派遣します。
合計の砲数は470門以上。
この戦いで
埋葬された人数だけで
イギリス人戦死46名
中国人2600名以上
となっています。
これは戦争と言うことができるでしょうか?
私から見るとこれは完全な虐殺です。
開戦からたった2年でアヘン戦争は清の敗北という形で
終焉します。
1842年南京条約締結。
内容は
没収したアヘンの代金600万ドルの支払い
戦争賠償金1200万ドルの支払い
香港の割譲
貿易港として5港を開港
となります。
清と貿易したら思い通りに儲からないので
三角貿易をし、アヘンを清に密貿易
中国人をアヘン漬けにして
それを清が禁輸しようと取り締まると
けしからんと軍隊を送って2600名以上を虐殺
1800万ドルの支払いと
香港を奪い、5港を貿易港として開港させました。
まぁ、ひどいもんですね。
100年以上の植民地支配を受けて
1997年7月1日、香港は中国に返還されました。
この時盛大な式典を
イギリスからわざわざチャールズ皇太子を招いて行なわれました。
アヘン戦争というかつてみないひどい戦いを受けて
多額の賠償金を払い、香港を取られているのに
中国はイギリスに文句ひとついわない。
日本には散々文句を言っているのにね。
この均衡感のなさ、ゆがんだ歴史観はどこからくるのか?
違和感を感じざるを得ません。
ところで、
1997年7月1日。香港返還式当日。
私は中国での自転車旅行を終え、上海におりました。
自転車旅行中の若かりし日の私(西安にて)
香港返還式を見に行こうかと当初計画していましたが、
ホテルなどの宿泊料金がべらぼうに値上がりしいて
旅の終わりということもあり、ウルトラ貧乏だったため、
残念ながら香港入りは断念したのでした。。。。
無理しても見に行っておくべきだったなぁと
今更ながらに思います。
また、さらにさかのぼって私が中学生のころ、
土曜洋画劇場か何かで
ジャッキー・チェンの「プロジェクトA」を見ました。
香港なのになぜかイギリス人の「提督」という人がいて、
その下で働いているのが中国人という場面をみて
なんだか不思議な気持ちになったことを良く覚えています。
今考えると映画設定当時香港は
イギリスの統治下にあったわけですから
違和感なく見ることができますが、
無知で不勉強だった当時の私は
まったくわからないまま、
ジャッキーのアクションだけをただただ楽しんでおりました。
ちょっと話が飛びましたが、
アヘン戦争・アロー戦争・日清戦争の敗北で
清国は多額の賠償金を外国に払うことになり、
財政破たんが国の崩壊のきっかけとなった、
ということです。
江戸時代末期に清でアヘン戦争があったわけですが、
こうした西洋列強の侵略の動きを
鎖国の中にあった日本で
敏感に感じ取っていた松下村塾の塾生というのは
まさに先見の明というか、
世界の動きを読む力にたけていたんだなぁと思います。
世界の大きな流れを読む、ということが、
日本の明るい未来を作り上げる力になる、
ということですね。
ということで、次回は本当に
「日清戦争の原因」に迫ります。
おしまい。
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